2008年5月20日火曜日

価値観の構え

今日のバクモンで、
太田光が

ゴリラのたたずまいから
我々が一瞬にして感じ取り
我々のものとして引き寄せて
感得する価値がある

という話から引き寄せて、
国や経済のあり方なんてものも
そういった「構え」によって
示していくことが必要なんじゃないか

っていってた

タイムリー




ABCといえば

六本木は外国みたい
香水のにおいが染みついて
体臭化してしまったかのようなあの
ヨーロッパの感じ

貫禄がついたというか


どんよりと今にも落ちてきそうな曇り空


残念だったけど2次会をパスして
けどやっぱりふらりとABCへ

あー、このステップ・フロア!
僕にとってABCはやっぱりここだ。

問題意識の熱がまだ冷めないからだろうか、
いろんな本を引き当ててしまう。

『理解の秘密』
『人を賢くする道具』
『人はなぜ話すのか』
『肉中の哲学』
『生物がつくる<体外>構造』
『文藝別冊、大瀧詠一』

お買い上げ。チ〜ン!
(最初の三冊は、
イシス編集学校の「三冊屋」という
企画でセットになっていた。
人を賢くする道具、はダブリ)

最後のはついでっぽいが、
内田樹先生と大瀧詠一御大のロング対談が
かねてより気になっていたのである。
帰りの電車で読んできたんだけど、

沁みる。沁みまくる。

しかしまあ今回特に天啓を感じたのは、


"生物がつくる〈体外〉構造―延長された表現型の生理学" (J.スコット・ターナー)



人の認識が外部リソースを必要としている、
ということを形にしなければ、ということに
迫られていたところなので、笑っちゃうほどタイムリー。

延長された表現系の「生理学」って!
ツボすぎる。

ほんとびっくり。

2008年5月17日土曜日

改行の妙味、その後

あ、HTMLモードで書くと
改行が全部ビーアールになるや。
ミバてきには一件落着かな

でもかたまりにピーつけてほしいんだけど

RSSの要約はピー頼みなんだけど


書き方がウェブ標準ぽくないってことかぁ


改行の妙味

さいきんAirがメインになったので
ectoが復活してるんだけど、
(昔のライセンスがまだ生きてた!)

ectoが改行の妙味を解さないので困っちゃう。
アップするとき変なピータグだの
ビーアールタグだのをいれて
ヤに間延びした感じになっちゃうので
アップしてから改行を修正したりしてる。

アホらし。

かたまりをピー
単なる改行をビーアールに
してほしーのだが。

それだけなのだが。

要は

ポエジーだよ、
ポエジー。

わかるかなぁ?

エジソンバンド

僕にとっての書見台の歴史は
使ってみてがっかり、の歴史だ。

あの、ページのめくりにくさが
とにかくいかん

開きにくい本を開きながらの作業の
うざさ解消のために使ってるのに、

ページがめくりにくいので
輪をかけてうざくなる、

というか、もっと肝心な部分で
思考を止めてしまう感じがする。


でも、仕事柄本を開きながらの作業は多いので
いつも欲していることはいて、

がっかり感を忘れた頃にまた買ってしまって
またがっかりする自分に腹を立てたりする。


が、今回こそは、そのスパイラルから
抜けられそうな気がする!


その名も「ほんたった」


「ダブル」ってあたりが、
米国特許取得ってあたりが、
たのもしくね?

ね?


本日、株式会社エジソンより
発送された旨メールがあったのですが、

「エジソン」という固有名に
何事か言わせようとしている
古式ゆかしい感じがなんか、

ヤってくれそうじゃん?


っていうか、滝田ゆうの
『寺島町奇譚』のビリヤード屋の親父の
エジソン・バンドを思い出して、
北東京テイストにやられちゃったんだよね。






"寺島町奇譚 (ちくま文庫)" (滝田 ゆう)

2008年4月23日水曜日

Thinkin in the rain

先日書いた彼が
引き合わせてくれたナガサキさんが、

(彼の人のアレンジは定評があるらしいのだが
その時も大変意気投合して、なにかとても
インスパイアされて帰ってきたのだけど、

最近ちょっとまずいことに酒の席のことを
あまり覚えていられなくて、
ここに書けないのがとても残念なのだが、

「時間」のことや音楽のアルゴリズムについて、
とてもふかーいことを話したのであった。
っていうかそんな気がするのだった。

今度あったときこないだ
なに話したんだっけって聞いとこう(笑))

昨年の県美術館のある展示のために制作した、
rainote08というファイル名の
音のファイルを送ってくれた。

音と音楽の中間の領域で響く
とても気持ちのよい音

並行している雨だれの系列を
rainnoteとする不変項=アルゴリズムは
なんなのかなぁ、とか、
(実際大部分はアルゴリズミックに作られたらしいのだが)

並行している系列をどのくらい増やしたら
ポツポツした雨だれじゃなくザーッと言う雨だれになり、
(「しとしと」と「ザー」の境目ではどのように響くのか)

またそれは、最初からホワイトノイズを使うのと
なんか違うのだろうか(加算と減算だね、)とか、

まあ言うたら(言葉にしてみたら)
そんな程度のことではあるけど、

とにかくそれらを聴いて確かめてみたいという、
ということは必ずしも言語的なものではないかもしれない、

雨の景色のように見通しのきかない
だけど広がりだけは感知できるような
「思考」をもドライブする音なのだった。

世界観の発見

いっしょにソバを食いながらフカダさんが、


シュタイナーあるいはユング的な世界観と
日本の地域にかつてあった習俗との同型性
について聞かせてくれる。


それは一言で言えば、
「あの世」を世界観の中に設定して
そこからの声に耳を傾けたり
行ったり来たりする、ということなのだけれど、


なのでぼくは、

人間の精神はなぜ「あの世」なるものを
「仮構」する必要があったのか疑問に思い、

それを口にだしてみたのだった。


すると、

「いや、それが世界観ですから」

という。いやそうじゃなくて、その世界観がなぜ
あの世とこの世の二分法で構成される必要があったのか、
ってことなんだけど・・

「??だって世界はそうなわけだから」


・・という言葉の途中で僕は分かった。


僕は普段からご縁や「必然」というものを
強く感じながら生きている方だと思う。
だけどそれは真の意味で「世界観」と
言えるようなものではなかったのかもしれない。

もちろんそういう世界観を持たなきゃという意味ではなく、
あまり意識していなかった自分の「業」の所在を
不意に突きつけられた感じがしたのだ。


この話は、だからそのような世界観を失った
「伝統工法」なるものも本来の伝統工法では
あり得ない。伝統工法の復権っていうんなら
世界観もまた復権しなければならないだろう、

と続くのだが、前回の「セッション」のときも
物づくりにおける時間の流れについての
衝撃的な指摘があったりしたし、


この人と家を建てたりするのは
面白いけど相当なカクゴは必要だなぁ、と
ソバをすすりながらぼんやりと思った。