昨晩はロクスケがやや風邪気味だったので、
堤神社(地域の神様)の豆まきには参加せずに、
家で豆まき。
各部屋の窓を大きく開けはなって
「おにはーそと!ふくはーうち!」
町中に声を響かせる。
きりりとしまった闇にむかって
豆を投げつけ、デカイ声を響かせる。
とても清々しい。
お正月は
早池峰山でお神楽見物。
ドシンドシンと床を踏みならし
剣で四方を切る。
サバサバッと清められた気がする。
初詣も神社にお参りするときは
おもいきし大きな柏手を2つ。
スカッと気持ちがいい。
四十路が近くなるとやはり
それなりに倦んでくる面もあるのであろうか、
年中の行事がもたらす清々しさというのが、
つまりそういうものが現在もあり続けることの意味が
なんだか分かる気がするのである。
なるほどなぁ、よく理解できないものも
存在するからにはこの世に誰か必要とする
人がいるからなのだなぁ。
そして、それはずっと同じではなくて、
いろんな条件で必要な人になったりならなかったり
ある年齢になって必要になったりいらなくなったりする。
書いてみれば当たり前だが
これまでこんな風には思えなかったな。
合間にポリポリ。
炒り豆、うめぇ。
炒り豆がおいしく感じられるようになったのも最近のこと。
ロクスケはそこら辺のを拾って食べてる。
こらこら、君は3つまでだよ。
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