2007年4月30日月曜日

北上のさくら



ははと、みいこと、ロクスケと、
北上展勝地のさくら見に。


ぬるくてすべすべした風
あとからあとからどうどう流れる北上川
おいしそうなすきとおった川縁の草と新緑
広くて抜けた青の空
ずーっとむこうまでもこもこ続く桜並木


おしゃべりしたりだまったり
そしてときどき
いいねぇ いいわねぇ
といいながらずうっと歩く


去年の春まだ桜の咲かないころ
いきあたりばったりで見つけた場所

そのときロクスケは初春の川辺の若草の
中にとつぜんぺったりすわりこんで
うっとりとうごかなくなった。


そのあと桜の季節にはマチゾーさんと。


そして今年は、こうして今のこの僕が
ははと、みいこと、ロクスケと。

人生はまったく油断がならない。



ここで高校生だったらよかったのに。

部活終わってジャージでチャリンコで。
好きな子とすわってずーっとおしゃべりして。
べつだんチューとかはしない 
ただぬるくてすべすべした風に 
うっとりするだけ
(『青い山脈』の草いきれの野原に
ねっころがるシーンみたいな)

みいことの想像ばなしは
だいたいいつも映画のシーンみたくなる



ろくすけは、最初にころんだときつかんだ
わらしべを最後までずーっと離さなかった

その日、長者にはなれなかったけどね。

2007年4月27日金曜日

メモ:構成どうしよー

任意の身体の可能性を探る方向は

・身体の任意の拡張に脳がついていけるか?

というのがまずひとつ

この中には形態と機能の認識が含まれる

 形態は神経科学的根拠あり
 機能は新しい問題かもー!わー
 →きっとアフォーダンスの概念が拡張されるのだ(要検証)

もうひとつは

・認識だけの存在がありうるか?

つまり、身体を消す方向だな、うん

この設定は不思議な二重性を帯びるはずだ

 火星人みたいなタコもあり:認識だけの存在OK
 火星人みたいなタコにする根拠がなくなる:決定は歴史的

 対立は歴史とデザイン?

 えっ!

 でもそういうことか

 うーん、この辺は頁を改めよう

メモ:形態と機能

自分がサイボーグだとせよ

まあ形態的な変化はわかるよ、見りゃ
でも機能的な変化はどうやって知るのかな




カニの手アタッチメントを装着!



手がカニっ!それはみりゃわかる



手がハサミっ!になったことは?

・・なんかをつかんでみりゃわかる、か。

わいー!

アフォーダンスか!

そうかそうか。

コクリの哲学

学生くんが演習の課題のことで相談にいらっしゃる。
本のICT的拡張のデザイン。いくつかのサムネール。




ああ、正解をお求めですね。




同じ時間を過ごすなら、
「・・・これって正解ですよね?」
より圧倒的に
「ほらほら、おもしろいでしょ!」
をききたいよおれは、と申し上げる。



自分も毒されていただけに、
受験価値観を解毒するのは大学の役目だと思っている。
でもどうすりゃいいのかね。

上述のようなことをいって解毒されるようなら世話はない。
(キアリー をとなえた!)


人生短いんだからさー
人の定規に測られにいくひまないっしょー

と思わず嘆息すると

「いきなり じんせいっすかー、はぁー」

とおっしゃるので

そりゃそうでしょう
人生が人生としてあらわれることはないんだよー



それにさー
自分をこめないものでおこるコミュニケーションがさー
自分をドライブすることなんてありえないっしょ、

正解求めていったものほめられて
それで自信になるわけー?




たとえばさー、誰かに好きって伝えることって
とても勇気がいるし、全身でオオマジになる瞬間だけど
(白昼堂々どういうたとえだよ)
それが受け止められたときって、
ぶっとんでっちゃいそうになるじゃん




「あー・・・(仰ぎ見て)・・・そうすね」



目を伏せちょっとはずかしそうにしたきみは
すでに なかなか いいかんじっすよ。