次の午後一のセッションで発表
郊外のコンベンションセンターで開催されているので、
昼飯を楽しむ、ってわけにはなかなかいかない
焼きキュウリとチーズのパニーニを頬張りつつ
しかし、「知る」ってどういうことだろう?
何千という人たちが、視知覚について
よってたかって研究して、冴えた研究も
そうでないのもあるけど、こうして
何百という発表になっている
だけど、これらを束にしても、脳どころか
「視る」ということだけについてさえ、
その全貌は少しも見えてこない
このままカンファを何十年と続けても、
視知覚について全部分かりました、という
瞬間は訪れないのではないか、そんな
目眩のような感覚を感じる。
(全部分かったからその目的を終えたので
解散します、ってソサエティは
存在するのだろうか?すごく知りたい)
なにをどうすれば分かったことになるのかな
こういう分かり方はとても好きだし、
レヴィ=ストロースが言うように
確かに現代において堕落していない唯一のジャンルだという
のは本当だと思うけど、ちょっとおれが
分かりたい分かり方とはちょっと違うのかも
しれないな、なんてことをほとんど
身体的な体験として感じることが最近はある。
2007年8月31日金曜日
2007年8月30日木曜日
ムルの国
オブジェクトリコグニションに関して貴重な情報入手
「やーどもども」もひととおり済ませた
今回のバンケットは中世料理を忠実に再現!
ってことで楽しみだったんだけど、ヨーロッパの飲み食いは
とにかく時間が遅いので(歌って踊って午前様、なんてザラ)
ロクを連れては無理だろうということで断念。
日が落ちて涼しくなったらウサギかトリュフでも食いにいきます。
ヨーロッパの街歩きの楽しみの一つは車見物。
「愛車」と躊躇なく呼べる我がムルティプラは
日本だと年に数回行き会うかどうかって頻度ですが、
(300台しか輸入されなかったので)
こちらではコーナーごとに見ないことがない。
人が乗っているのをじろじろ見て、あらためて、つくづく、いい車。
疑いなく歴史に残りますね。
500の復刻が話題だけど、
フィアットの好調ぶりをひしひしと感じた。
アルファはだめなかんじ
ちなみにパトカーは159
ポリツィアの方が悪そう
っていうか、イタリアくるとバイクにのりたくなる
こっちのバイク乗りのかっこよさは、
モンゴロイドとラテンの違いとしか言いようがない
普通に道具として乗ってるだけなのに、
なんであんなにかっこいいかなぁ
日本では体現しているもののないかっこよさ
(唯一、福生のジレラ乗りのトリオさんだけ例外)
考えてみれば、このかっこよさにしびれて
歴代2輪は2台ともイタ車
街角でダムダムダムダムという音を聞くと
もっと大切にしておけばよかったなぁ
チタンパールのセパレートシートVESPA ET3
ああ・・・
こっちでも全然見なくなっちゃったけど
(本国でもつぶれたか?)
帰ったら絶対乗れるようにしよう
ITALJET180
2ストで環境破壊だけど
「やーどもども」もひととおり済ませた
今回のバンケットは中世料理を忠実に再現!
ってことで楽しみだったんだけど、ヨーロッパの飲み食いは
とにかく時間が遅いので(歌って踊って午前様、なんてザラ)
ロクを連れては無理だろうということで断念。
日が落ちて涼しくなったらウサギかトリュフでも食いにいきます。
ヨーロッパの街歩きの楽しみの一つは車見物。
「愛車」と躊躇なく呼べる我がムルティプラは
日本だと年に数回行き会うかどうかって頻度ですが、
(300台しか輸入されなかったので)
こちらではコーナーごとに見ないことがない。
人が乗っているのをじろじろ見て、あらためて、つくづく、いい車。
疑いなく歴史に残りますね。
500の復刻が話題だけど、
フィアットの好調ぶりをひしひしと感じた。
アルファはだめなかんじ
ちなみにパトカーは159
ポリツィアの方が悪そう
っていうか、イタリアくるとバイクにのりたくなる
こっちのバイク乗りのかっこよさは、
モンゴロイドとラテンの違いとしか言いようがない
普通に道具として乗ってるだけなのに、
なんであんなにかっこいいかなぁ
日本では体現しているもののないかっこよさ
(唯一、福生のジレラ乗りのトリオさんだけ例外)
考えてみれば、このかっこよさにしびれて
歴代2輪は2台ともイタ車
街角でダムダムダムダムという音を聞くと
もっと大切にしておけばよかったなぁ
チタンパールのセパレートシートVESPA ET3
ああ・・・
こっちでも全然見なくなっちゃったけど
(本国でもつぶれたか?)
帰ったら絶対乗れるようにしよう
ITALJET180
2ストで環境破壊だけど
2007年8月29日水曜日
2007年8月21日火曜日
私の脳内
ぼくの脳内の解析画像です。
(ずいぶん前ですが、町蔵さんがやってたのを見てやってみた)
ぱっと見、「脳」に見えて
な、なぜ職業まで??とゾッとしましたが、
悩んでるだけだったみたい。
ちなみに前世の脳、
「艶」ってのはうれしぃねぇ
どっか芸事の世界と関係あったかなとも思うので
ついでにフェチの脳、
普通なだけにかえって恥ずかしい・・
ってか、どれも要素2つだけかよー
たんじゅーん むじゃきー(谷岡ヤスジ調で)
うーむ、昨今の脳科学の進展は恐るべきものがあるな。
だが、脳の可塑性を忘れ、このような固定的な特性によって、
髪フェチの人、などというようにレッテルが貼られ
人間が選別されてもよいのか?
諸賢にあられても、この記事をもって、
脳科学の倫理を問うきっかけとなれば幸いである。
(ずいぶん前ですが、町蔵さんがやってたのを見てやってみた)
ぱっと見、「脳」に見えて
な、なぜ職業まで??とゾッとしましたが、
悩んでるだけだったみたい。
ちなみに前世の脳、
「艶」ってのはうれしぃねぇ
どっか芸事の世界と関係あったかなとも思うので
ついでにフェチの脳、
普通なだけにかえって恥ずかしい・・
ってか、どれも要素2つだけかよー
たんじゅーん むじゃきー(谷岡ヤスジ調で)
うーむ、昨今の脳科学の進展は恐るべきものがあるな。
だが、脳の可塑性を忘れ、このような固定的な特性によって、
髪フェチの人、などというようにレッテルが貼られ
人間が選別されてもよいのか?
諸賢にあられても、この記事をもって、
脳科学の倫理を問うきっかけとなれば幸いである。
2007年8月20日月曜日
蝉のお弔い
「おとーさん、セミが死んでる!」
とロクスケが報告しに来たので、
なにっ、どれどれ、と見に行くと
大きなセミが足を上に向けてひっくり返って
行きだおれている。
ロクスケによく見せてやろうとつかみ上げると
ジジジジジジ・・・・
ぅわぁ!!
これが世に名高い
セミ爆弾(byハチクロ)である。
あー、びっくしたねー
ロクスケはまたジジジってなるから
やめてくれというのだけど、
顔が見たいのでそっとひっくり返す
碁石みたいなつや消しの深い黒に
白い斑がはいっている
力強くもこもこと隆起した
その造形は仏像を思い起こさせた
日常の空間にパカッと切れ目ができて
現形したような彼岸の造形に
ずっと見入ってしまう
そこへ、みぃこがやってきて
「セミ描いとこ」
ゴシゴシ しゅっしゅっ
グリグリ さっさっ
「日に当たって柔らかくなって
クレヨン気持ちいー オイルパステルみたいー」
真っ白い画用紙に
黒い甲冑にくるまれていた
カラフルな生命が
ぐりぐりと写し取られる
死んだ人はみんな言葉になるのだ。
(寺山修司)
2007年8月19日日曜日
2007年8月18日土曜日
啓示
なにか現世的なものや常識的なものに
とらわれそうになったり、
人のことが気になってしまうとき
不真面目だぞ!
と自分をたしなめる。
うまく伝わらなかったり振る舞えなかったり
過去がずっとついてきてしまうとき、
ごめんね、いつでもうまくはいかないよ
と何かにあやまって流す。
iTunesのデータベースから不意に選択された
AYA-COLLETTEの『恋するミラノ』
手放した風船がふうっと空に舞い上がるように
何の感情の前触れもなく泣き出してしまってから
自分でビックリする
誰もいない夏の学校の片隅にも
啓示はおとずれる
とらわれつつ間違いつつ戻りつつ
変化し進化する感受性と知性を我に!
とらわれそうになったり、
人のことが気になってしまうとき
不真面目だぞ!
と自分をたしなめる。
うまく伝わらなかったり振る舞えなかったり
過去がずっとついてきてしまうとき、
ごめんね、いつでもうまくはいかないよ
と何かにあやまって流す。
iTunesのデータベースから不意に選択された
AYA-COLLETTEの『恋するミラノ』
手放した風船がふうっと空に舞い上がるように
何の感情の前触れもなく泣き出してしまってから
自分でビックリする
誰もいない夏の学校の片隅にも
啓示はおとずれる
とらわれつつ間違いつつ戻りつつ
変化し進化する感受性と知性を我に!
2007年8月15日水曜日
『楢山節考』
夏の読書は深沢七郎つづきで
"楢山節考" (深沢 七郎)
何度読んでも清々しい表題「楢山節考」
今日の読売新聞の「編集手帳」では、
盆にあたってという趣旨だと思うが、
この1年起こった「理不尽な死」に触れていた。
ほとんどみんな忘れているが、
(僕だって忘れそうになるが、)
盆は本来あの世の霊がこの世に帰ってくるという季節なので、
(だからこそ家族みんなで先祖の霊を迎えよう、
という主旨で里帰りするわけだ)
それに、ちょうどこの季節は終戦記念や原爆忌も重なるので、
やはり僕にとっても死を想う季節ではあるのだ。
でも「理不尽な死」とはなんだろう?
というか「理不尽じゃない死」として
何が想定されているのだろうか?
それはたぶん「天寿を全うする」死、
つまり老衰だろう。その読売の記事に限らず、
通常あるべき死=老衰、という通念は
特に吟味されることもなくかなり広く
行き渡っていると言っていいだろう。
でもその前提はちょっとおかしい。
だって、老衰で死ぬ割合は、平成18年度統計で
全死因中たった2.6%なのだ(厚生労働省)。
統計的センスあふれる僕の研究室の
学生諸君のような人たちなら
「老齢の人たちだけの死亡割合を見てみないと
それは結論づけられないよ」と指摘するだろう。
スルドイ(笑)
だが、老衰がそのほかの死因をぬいて1位になるのは
ようやく100歳を超えてから(約20%)であり、
90歳代に至るまで日本人成人の多くは、ガンか心疾患か
脳血管疾患で死ぬ(全年齢階級あわせて約60%)。
僕がおかしいとおもうのは、
そのような大多数をしめる死の有り様を
死のスタンダード、つまり
「理不尽でない死」としないで、
死のありようとしてはごくごく少数派の
老衰を死のスタンダードとしてしまっていることだ。
僕は実態に合わないこの「老衰至上主義」が、
我々の社会にとても深い弊害をもたらしていると思っている。
まあ語り出すと大変なのでメモ的に2点だけ。
一つは、狭量で偏向した価値感を生んでしまっていることである。
もう一つは、大多数をしめるガンや心疾患や脳血管疾患による
死の扱い方を間違ってしまうことである。
後者についてちょっとだけ書くと、これらの病気の死について
医学はそれに見合った「死モデル」をもっておらず、そこでも
やはり「死=老衰(生物学的な機能停止)」なのである。
だから、最末期のガン患者にモルヒネを投与するなんてことが
平気で行われてしまう。モルヒネを麻酔薬か痛み止め程度の
イメージでとらえている人が多いけど、とんでもない話で、
ごく簡単に言えば我々人間にとって最も重要な脳の部分を
破壊して意識を混濁させることで痛みを「止める」薬なので、
(それって止めるってことなのか?)
ラカン言うところの「象徴界」に生きる人間にとって
これほど「理不尽な生」もないのだ。
念のために言うけど、単純に所謂「尊厳死」に賛成だという
ことが言いたいわけではない(尊厳死って言い方は
結局老衰至上主義と根っこは同じ)。
ただ、老衰至上主義で思考停止している限り、
「病による死」をきちんと位置づけることはいつまで
たってもできないだろう。
(病による死については、
"ニーチェ (ちくま学芸文庫)" (ジル ドゥルーズ)で
言及されている「健康」の概念がヒントになるだろう)
自分のことだからね。ガンになったとき
ロクスケに背負われて山に捨てられる選択肢も
やっぱほしいんだよなぁ。
そして、この作品は、
「理不尽じゃない死」がどんなものかについて
とても重要なことを気づかせてくれる。
それは、死んだ者がまあ死んでもいっか、って
思えていたかどうかということである。
(それも特に残された者への「気遣い」
あるいは一種の死の演出として)
残されたものが死んだ者の無念を想わざるを得ないとき、
その死は死因がなんであれ「理不尽な死」となる。
これは確かなことである。
そして、死因なんかよりむしろ
人間の死が理不尽であったかどうかを考える上では
重要なことである。
あの人は、あの人の生に満足して山に送られていった、
と思えることが、財産なんかよりどんなにか
残されたものに心の安らぎを与え、また
一族の安寧をもたらすか、考えてみるべきなのだ。
しかしいずれにしたって、
多くの場合は訳も分からず死んでいくのだ。
残された者も、死はよくわからないままだ。
よく、幼子の死んだ人にたいする無邪気な発言
(「おとーさんはどこへいっちゃったの?」みたいな)
にたいして、「何にもわかってないのね」と
大人が涙する、という場面があって、メロドラマ的
クリシェとして嫌いじゃないけど、でも
本当の意味で何も分かってないのねと言って
泣ける大人など一人もいない。
どこまでいっても死と単なる不在の違いは
はっきりせず、ピンとこないままだ。
所収の名作「東京のプリンスたち」、
「白鳥の死」についても触れたいけど
これはまたいずれ。
"楢山節考" (深沢 七郎)
何度読んでも清々しい表題「楢山節考」
今日の読売新聞の「編集手帳」では、
盆にあたってという趣旨だと思うが、
この1年起こった「理不尽な死」に触れていた。
ほとんどみんな忘れているが、
(僕だって忘れそうになるが、)
盆は本来あの世の霊がこの世に帰ってくるという季節なので、
(だからこそ家族みんなで先祖の霊を迎えよう、
という主旨で里帰りするわけだ)
それに、ちょうどこの季節は終戦記念や原爆忌も重なるので、
やはり僕にとっても死を想う季節ではあるのだ。
でも「理不尽な死」とはなんだろう?
というか「理不尽じゃない死」として
何が想定されているのだろうか?
それはたぶん「天寿を全うする」死、
つまり老衰だろう。その読売の記事に限らず、
通常あるべき死=老衰、という通念は
特に吟味されることもなくかなり広く
行き渡っていると言っていいだろう。
でもその前提はちょっとおかしい。
だって、老衰で死ぬ割合は、平成18年度統計で
全死因中たった2.6%なのだ(厚生労働省)。
統計的センスあふれる僕の研究室の
学生諸君のような人たちなら
「老齢の人たちだけの死亡割合を見てみないと
それは結論づけられないよ」と指摘するだろう。
スルドイ(笑)
だが、老衰がそのほかの死因をぬいて1位になるのは
ようやく100歳を超えてから(約20%)であり、
90歳代に至るまで日本人成人の多くは、ガンか心疾患か
脳血管疾患で死ぬ(全年齢階級あわせて約60%)。
僕がおかしいとおもうのは、
そのような大多数をしめる死の有り様を
死のスタンダード、つまり
「理不尽でない死」としないで、
死のありようとしてはごくごく少数派の
老衰を死のスタンダードとしてしまっていることだ。
僕は実態に合わないこの「老衰至上主義」が、
我々の社会にとても深い弊害をもたらしていると思っている。
まあ語り出すと大変なのでメモ的に2点だけ。
一つは、狭量で偏向した価値感を生んでしまっていることである。
もう一つは、大多数をしめるガンや心疾患や脳血管疾患による
死の扱い方を間違ってしまうことである。
後者についてちょっとだけ書くと、これらの病気の死について
医学はそれに見合った「死モデル」をもっておらず、そこでも
やはり「死=老衰(生物学的な機能停止)」なのである。
だから、最末期のガン患者にモルヒネを投与するなんてことが
平気で行われてしまう。モルヒネを麻酔薬か痛み止め程度の
イメージでとらえている人が多いけど、とんでもない話で、
ごく簡単に言えば我々人間にとって最も重要な脳の部分を
破壊して意識を混濁させることで痛みを「止める」薬なので、
(それって止めるってことなのか?)
ラカン言うところの「象徴界」に生きる人間にとって
これほど「理不尽な生」もないのだ。
念のために言うけど、単純に所謂「尊厳死」に賛成だという
ことが言いたいわけではない(尊厳死って言い方は
結局老衰至上主義と根っこは同じ)。
ただ、老衰至上主義で思考停止している限り、
「病による死」をきちんと位置づけることはいつまで
たってもできないだろう。
(病による死については、
"ニーチェ (ちくま学芸文庫)" (ジル ドゥルーズ)で
言及されている「健康」の概念がヒントになるだろう)
自分のことだからね。ガンになったとき
ロクスケに背負われて山に捨てられる選択肢も
やっぱほしいんだよなぁ。
そして、この作品は、
「理不尽じゃない死」がどんなものかについて
とても重要なことを気づかせてくれる。
それは、死んだ者がまあ死んでもいっか、って
思えていたかどうかということである。
(それも特に残された者への「気遣い」
あるいは一種の死の演出として)
残されたものが死んだ者の無念を想わざるを得ないとき、
その死は死因がなんであれ「理不尽な死」となる。
これは確かなことである。
そして、死因なんかよりむしろ
人間の死が理不尽であったかどうかを考える上では
重要なことである。
あの人は、あの人の生に満足して山に送られていった、
と思えることが、財産なんかよりどんなにか
残されたものに心の安らぎを与え、また
一族の安寧をもたらすか、考えてみるべきなのだ。
しかしいずれにしたって、
多くの場合は訳も分からず死んでいくのだ。
残された者も、死はよくわからないままだ。
よく、幼子の死んだ人にたいする無邪気な発言
(「おとーさんはどこへいっちゃったの?」みたいな)
にたいして、「何にもわかってないのね」と
大人が涙する、という場面があって、メロドラマ的
クリシェとして嫌いじゃないけど、でも
本当の意味で何も分かってないのねと言って
泣ける大人など一人もいない。
どこまでいっても死と単なる不在の違いは
はっきりせず、ピンとこないままだ。
所収の名作「東京のプリンスたち」、
「白鳥の死」についても触れたいけど
これはまたいずれ。
2007年8月14日火曜日
まだ降らない流星を感じながら
細い蜘蛛の糸をたどって
こうして夏のもやの海に沈む街や
冷たい小川や マイナスイオンの林や
出はじめた星や
昼の熱を残すアスファルトや
草いきれや しつこい羽虫や
高速道路の照明や まっくらな浜辺の花火や
低くとぶ飛行機の照明や 外海の大きな波に
知らない間にこわばっていたモードを
ゆっくり溶かすのを見てる。
「その日その時というのは二度と来ない。
その日どうだったかが巡り合わせという事だ。」
(『セクシーボイスアンドロボ』)
「まったくな 森羅万象に比べりゃ
おれたちなぞちっぽけなものだぞ。
しかしな、それを認めたからといって
行を放棄したり負けてはいかんのだよ。
確かに森羅万象におれたちはかなわんが
その森羅とて実はおれたちにかなわんのさ。
人も森羅も存在するにはそれだけの意味がある。
本当はそこでそのとき出会ったのはなぜなのか、
そのようにしたのはそのように見えたのはなぜなのか
何の意味があるのか、考えねばならんのだ」
(『陰陽師』)
なんて面白いんだろ
それに、きれいだなあ
胸がいっぱいになる
こうして夏のもやの海に沈む街や
冷たい小川や マイナスイオンの林や
出はじめた星や
昼の熱を残すアスファルトや
草いきれや しつこい羽虫や
高速道路の照明や まっくらな浜辺の花火や
低くとぶ飛行機の照明や 外海の大きな波に
知らない間にこわばっていたモードを
ゆっくり溶かすのを見てる。
「その日その時というのは二度と来ない。
その日どうだったかが巡り合わせという事だ。」
(『セクシーボイスアンドロボ』)
「まったくな 森羅万象に比べりゃ
おれたちなぞちっぽけなものだぞ。
しかしな、それを認めたからといって
行を放棄したり負けてはいかんのだよ。
確かに森羅万象におれたちはかなわんが
その森羅とて実はおれたちにかなわんのさ。
人も森羅も存在するにはそれだけの意味がある。
本当はそこでそのとき出会ったのはなぜなのか、
そのようにしたのはそのように見えたのはなぜなのか
何の意味があるのか、考えねばならんのだ」
(『陰陽師』)
なんて面白いんだろ
それに、きれいだなあ
胸がいっぱいになる
2007年8月10日金曜日
『言わなければよかったのに日記』
夏といえば、
夏休みといえば、
読書
この強い連想は、
夏休みの読書感想文の宿題や、
学研が「科学・学習」購読者向けに
だしてた夏休み副読本、
そして、新潮文庫のキャンペーンに
よるところが大きい
ありあまる時間を
昼下がりの日差しや
蝉がなく声を背景に
箱庭のように完結した世界に
浸かりきって過ごした、
あの甘美な体験のせいだ
仕事に関するもの以外、
何か体系的に読もうなんて気はないし、
それに読むのがすごく遅いし、
読んだ数だってたいしたことないし、
でも、本が好きだと言えるのは
あのとろけるような体験があるからだ
だから今年の夏も、
なにかいつもとちょっと違った
気持ちで本を手に取る
そして、なぜか手に取ったのが
"言わなければよかったのに日記 (中公文庫)" (深沢 七郎)
渋いというかなんというか、
まあとにかく時宜にかなうということは皆無の、
自分でもなぜ深沢七郎なのか
よく意味がわからない選択なのだが、
どこの誰だって人間ならこんなふうに実は
”何も身につけてはいない”んだよなって思わせる、
例えば「銘木さがし」の飄とした旅っぷりを
はじめとする漂泊の日常を描いたエッセイの中でも
「思い出多き女おきん」で描かれた
山梨で印刷業を営む深沢家の女中おきんが
特に印象に残った。
仕事がきらいでへたくそで、
遊びが大好きでちゃっかりしてて、
ものが大切にできなくて、
激しいところがあって、
でも暇をもらって内緒で恋人と
旅にでる先はどっかの温泉とかじゃなくて
善光寺っていうまじめな、
おきんのような女を
「偉い女だ」といい、
本当にそうだなと僕に思わせるように、
僕は現実に知っている
おきんのような女性の「偉さ」を
自分のことは偉いなんて思わないし
そんなことはたぶん関係ない当の本人にかわって
深沢七郎が言葉でそうしたように
この世に存在させることができるだろうか?
夏休みといえば、
読書
この強い連想は、
夏休みの読書感想文の宿題や、
学研が「科学・学習」購読者向けに
だしてた夏休み副読本、
そして、新潮文庫のキャンペーンに
よるところが大きい
ありあまる時間を
昼下がりの日差しや
蝉がなく声を背景に
箱庭のように完結した世界に
浸かりきって過ごした、
あの甘美な体験のせいだ
仕事に関するもの以外、
何か体系的に読もうなんて気はないし、
それに読むのがすごく遅いし、
読んだ数だってたいしたことないし、
でも、本が好きだと言えるのは
あのとろけるような体験があるからだ
だから今年の夏も、
なにかいつもとちょっと違った
気持ちで本を手に取る
そして、なぜか手に取ったのが
"言わなければよかったのに日記 (中公文庫)" (深沢 七郎)
渋いというかなんというか、
まあとにかく時宜にかなうということは皆無の、
自分でもなぜ深沢七郎なのか
よく意味がわからない選択なのだが、
どこの誰だって人間ならこんなふうに実は
”何も身につけてはいない”んだよなって思わせる、
例えば「銘木さがし」の飄とした旅っぷりを
はじめとする漂泊の日常を描いたエッセイの中でも
「思い出多き女おきん」で描かれた
山梨で印刷業を営む深沢家の女中おきんが
特に印象に残った。
仕事がきらいでへたくそで、
遊びが大好きでちゃっかりしてて、
ものが大切にできなくて、
激しいところがあって、
でも暇をもらって内緒で恋人と
旅にでる先はどっかの温泉とかじゃなくて
善光寺っていうまじめな、
おきんのような女を
「偉い女だ」といい、
本当にそうだなと僕に思わせるように、
僕は現実に知っている
おきんのような女性の「偉さ」を
自分のことは偉いなんて思わないし
そんなことはたぶん関係ない当の本人にかわって
深沢七郎が言葉でそうしたように
この世に存在させることができるだろうか?
2007年8月9日木曜日
夜の街デビュー
直前のエントリーにコメントしてくれた
カヤケン最初の卒業生マッツンが
ちょうど我々が秋田を訪れた日に
提灯の竿をひたいにのせたり
肩にのせたり、腰にのせたり、
要するにカッコイイとこ見せてたなんて!!
ああー残念だー
ばかー!なんで聞いとかないの?!
って今みぃこにも言われたけど、
マッツンもう仙台に帰ってきてたし、
まさか秋田にいて、
しかも提灯かついでるなんて
思わねがったもんなー
ああー
しかも、竿灯がおわったあと、
マッツンが研修で秋田にいたとき
連れて行ってもらった
「青い鳥レストラン」で、
ロクスケが夜の街デビューを
はたしていたのです。
オーナーシェフのサトウさんに
出会ったその時のいきさつはいつか書こうと
おもっているのですが、
まあとにかく再び連絡もせずに訪ねていって
「おおおー、今一杯ですけど
とにかく席を用意します」
といって折りたたみ机で
急ごしらえの席をつくってもらい、
またもやしみじみと良い時間を
すごしたのであった。
今回頼んだのは、
・自家製ピクルス(チーズおまけ)
・(欧風卵とじ、おまけ)
・グリルしたマスにラタトゥイユ的なものがかかったやつ
・白貝にトマトとかのっけてグリルしたやつ
(白貝は東京じゃほとんどお目にかからないけど、
むちゃくちゃおいしい貝)
・トマトベースのおまかせのスパゲティーニ
空間のしつらえも音楽も隅から隅まで
ゆきとどいて、やっぱここサイコー
(前回はMatthew Herbert教えてもらった)
ほんとにこんなとこ他に無いです
ミィコは「飛良泉」で久々酔っぱらって
(こんなふうに大人の店にしかもこの時間に
来るなんてみぃこはほんとうに久しぶりなのだ)
最初からとばしまくる
トイレにいく人にロクスケといっしょに
「いってらっしゃーい!がんばってねー」
とか言ってる。お店に来てた人たちも
とても懐が深くて、
「はーい、がんばりまーす」
とか言ってくれる。
僕とロクスケをのぞくと女子ばかり。
弘前でもそうだったけど、女子はとにかく
どこにいってもどんな状況でも楽しんでる。
男子はどうした?
(0804/07の出来事)
みちのく育ち
うちわを振って取り憑かれたように
ピョコピョコおどる
ロクスケの魂には東北のリズムが
深く刻まれつつある
0歳:西馬音内盆踊り
1歳:黒石ねぷた
2歳:なまはげさん、早池峰神楽、
弘前ねぷた、青森ねぶた、秋田竿灯
「ねぷたはね、ヤーヤド
ねぶたはね、ラッセーラ
ちょうちんまつり(竿灯のこと)は、ドッコイショ」
全部覚えてしまった。
よしよし
「これでたたいてー」
と積み木の棒を2本渡されたら始まり。
ロクスケが背中にしょった絵本を
とーちゃんが
トン トトントン トン トトン
と叩くとロクスケは
「ヤァーヤ ドー」
これでそこらを行進して回るのである。
これが最近はやりの遊びなのである。
よしよし
うちではしつけもなまはげさん
「おかーさんはなまはげさんと仲良しなんだからね。
(実際どっちかっていうとアッチ側の人である)
おかーさんが呼んだらなまはげさんすぐ来るよ」
っていうとたいていふるえあがって
言うことをきく。
2007年8月6日月曜日
夏は終わっちゃいなかった
2007年8月5日日曜日
途中は工事のためバス振り替えでした
普通に歩けば行き当たる
縄がくずれる感じがイイ
2007年8月3日金曜日
なんで鰐なんだろう
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