自民党の日銀総裁案が
参院で民主に否決された。
政治に暗い僕ですが(だからこそ?)、
さすがにわけがわからん。
福田さんも
「なんでだめなんだかよーわからん」
と言っていたが、
こればかりはホントですよ。
「困りますね」
ホント、困るしかない。
小沢さんは、副総裁候補だけにマルをした。
「とりあえず副総裁を執務可能にすることで、
反対のための反対ではないと
国民には理解いただけるはず」
とのことなのだが、
さすがにこれには笑ってしまった。
というのも政策を背景にした反対なら
わざわざこんなことを言わなくても
いいはずだからだ。
反対のための反対ではないことを
理解してもらうために副総裁だけにはマルをする、
という形式的な決定が成り立ってしまうということで、
実は、総裁案反対には別に政策的な理由はない
ってことを明らかにしちゃってる。
本人たちがそれに気づかないのみならず、
それが指摘されているのを寡聞にして聞かないので、
そのへんは面白いねぇ。
それはたぶん、二大政党制が、反対のことを
言い合う2つのパーティがぎったんばっこん
シーソーゲームを繰り返すことなんだ
というふうに理解されてるからだろう。
だけどその一般的見解に僕は違和感がある。
政権変わるたびに、
ぎったんばっこんされたら
たまらない。
実際は、
政策の一貫性は官僚が担っていて
とりあえず反対を唱えていた野党も
与党になれば、そちらに与していく
ということになるんだろうけど、
だとすればなおさらバカバカしい。
「比較」は同じ土俵にないと無理なんで、
だからどうも、違う土俵にひっぱりこむことが
異なる政策を提出することであるかのような
「政策論議」には、ついていく気がなくなっちゃうんだけど、
なんで比較不能なものが「政策論議」として
世間でまかり通っちゃってるのか、
その辺は少し考えてみる価値がありそうだ。
もしかしたら、我々は普段から、実は、
「比較」というロジックを、
正当には行使していないのかもしれない。
研究者である僕自身、
対照群あるいは対照実験、という考え方が
ピンと来るまでちょっと時間がかかったし、
公になっている研究の中にさえ、対照群が不備だったり、
対照実験がなされていないものが実は散見される。
(それだけ対照群というのは設定が難しいもので、
対照群をいかに設定するかが実は
研究のポイントだったりする)
比較というロジックがなじんだりなじまなかったりする
思考の風土性については一度考えてみる必要があるな。
と、さして本気でもなく思ったりする昼下がり。
春だなァ
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