2008年12月12日金曜日
小商い
とにかくセグメントが大きすぎるんだと思う。一定の利益を得るために、仕事の単位そのものを大きくしなくちゃならなくなる。一方で、ヒューマンスケールは大昔からそれほど変わってるわけじゃない。だから生きてくのに必要なお金を稼ぐと言う意味でなら、商売の集積が極度に進んでいる今こそニッチはたくさんあると思う。やっぱ「小商い」だよ。シェアだよ。それしかないよ。
橋本治が「30年代にもどそう」と言ってるのは、だから、とても正しいと思う。そして、それを正しいと思えるのは必ずしも論理的な帰結からだけではなくて、大部分は自分の父母から肌身で感じる直感からだったりする。父母には、30年代の「ちょうどよい資本主義」、言ってみれば商業主義的なイコンに魅惑されつつもそれを買おうなんて発想がなくて自分でつくっちゃう、あるいは、買い物のとき値段だけで判断するくせにお金が全てだとはみじんも思っていない、そういうないまぜなところがあって、親から語り継ぎたいとすれば、戦争体験より(まあそれはそれで語り継ぐ、というかおれが弔わなければならないことはあるなと感じているのだけど)そのことなのだった。
2008年11月8日土曜日
パリのギター職人
こういう作る博物学みたいのはもうまったくツボで、自分でもビックリするくらいツボだったってことがわかって、テンション上がりっぱなしで、しかも一段下がった奥に弟子がいるなんて言われたもんだから「アマザワセイジくん?!」とキュンとなってテンション最高潮で奥へいくと、アマザワくんどころか、ジャンピエールレオーどころか、てっぺんがはげ上がったおじさんで、ボ、ボンジューグと言ってようやく少し冷静になる。
ロクスケには別に好きにしなよって思っていて特に望みなどなかったのだけど、一つだけ、楽器は好きになってくれたらいいなぁ、特にギターとかやんないかなとおもっていたので、そろそろどうかなと聞いてみたら、まだ早い7歳からだ、と明言されて根拠はよくわかんないけど納得しつつ、しかし、サブリミナルに間接的に暗に背後から死角から盲点をついて知らぬ間にギター職人の夢をロクスケにインプリントして、「モ、ゼッタイ弟子入りさせちゃるけんね」と思わず谷岡ヤスジ口調でモンスター化するペアレント、いやペアレンツなのであった。
2008年11月7日金曜日
そのときどきの入り口
でも、僕よりちょっと年齢が若いひとたち、とくに今聞いている音楽では趣味が合うようなひとたちで、TMNから入ったっていう人は結構多いので彼らはどう感じているだろう。
僕にしてみれば、そんなわけで、TMNから音楽に入る感じが全然分からないんだけど、なにか先端的な感じ、アンチな感じ、人とはちょっと違う感じ、を投影できる音楽が時代時代にあって、その一つが彼らの時はTMNだった、ということなのかもしれない(まあ単にヤングアンセムの投影先ってことでもあったろうけど)。最近は見かけないけど、そしてこれも全然理解できないんだけけど、サノモトハル神って人たちもいたなぁ。
まあね。
人の入り口をとやかくいうつもりはないですが、自分の事を振り返ったとき、小学生のときYMOでスネークマンショーでつくづくよかったなぁ、とは思う。このような場合、時間がたつことで評価の定まった過去の状況を故意あるいは無意識的に自分の属性と取り違えて自慢するというのがとられがちな行動ですが、そうでは決して無くて、これは「僥倖」であり、「僥倖」として感じられることは僥倖だなぁと思うし、そこから大げさに言えば世代的使命みたいなものさえ感じてしまうことがあると言えばやっぱり言い過ぎかもしれないけど。
自分の属性としての趣味としては恥ずかしいことはたくさんある。ライブハウスは別として大箱で「ライブ」として、というか「コンサート」として見に行った最初のコンサートはレインボーだしなぁ。リッッチ〜〜とか叫んでた。カシオペアとか歌謡フュージョンにどっぷりだったし。僕にとってFM音源の音が象徴するのはどっちかいうと向谷実です。ベストヒットUSAで適度に解毒されつつ(かなり早い段階でヒップホップとかハウスとかの動向を紹介してたし、スクラッチの実演紹介wとかしてたのを思い出した。すごい番組だったと思う)、好きな女子にThe Jamに導かれなかったら今頃どうなっていたことか、とゾッとする。とはいえ、ポール・ウェラーは既にスタカンで、勇んで出かけた新国技館(デートね)ではダブルのスーツで高らかに歌い上げてて「えーと・・」という感じだったのですが。
まあカシオペアがなぜ恥ずかしいかは、その後のインディーで、宝島で、フールメな(これはこれで恥ずかしい)カシオペアが好きとは口が裂けても言えない高校生活というものをふまえないとご理解いただけないとは思います。なにより、せっかくYMOから入りつつ(というか実はその前にビートルズなんだけど、こちらはリアルタイムじゃないので)、はっぴぃえんどに遡航したり、ブラック・ミュージックに旅立ったり、アイドルを掘り下げたりって方向に行かずに、フュージョンだのハードロックだのにうつつを抜かす、というのは知的に音楽と関わっていなかった動かぬ証拠であり、マチゾーさんが随分前に「フュージョンほど音楽的遺産を残さなかった音楽はない」と言っていてホントにそうだなと思うけど、随分フィジカルなおつきあいしか出来てなかったなと思う。まあ今となっては、過剰な80年代にぴったりよりそわずバカな子供でいられてよかったと思える面もないことはないんだけど、ともあれ、10代というのはまったくバカバカしいものでございます。
2008年11月1日土曜日
モン場所
どこに行っても、どこに居てもおんなじだ。トモヤンのダンナのリベヤンのギター工房をでて、68番線のバス停まで送ってくれたトモヤンの髪の毛にのっかった雨ツブをみながら「またねー」と言った今朝はロクスケといっしょにおとなりのスズキさんのところへ行って帰朝報告をしてる。初冬の仙台のひんやりしたかぐわしい空気のテクスチャで検索されて透過的に重ね合わされて眼前に浮かぶあの場所この場所は、名前はなんであれ、「私の場所」だ。
2008年8月4日月曜日
夏は来ぬ
夏日になったと思えば、
太陽の輪郭がぼやけてもやのかかった
そしてやたらと湿度が高い、
熱中症に最適!というような一日。
盆前の草刈りの最後のチャンスだなーと
思っていた日がこの気候だ。
ムムッと息をつめてがんばる。
ホンダの4ストをぶんまわす。
ヨモギの大きく育ったやつとか、
ススキのようなものはナイロンじゃ
歯が立たないので、鎌ででザクザクと刈る。
小さな虫どもが泡食って飛び出す
ヘビさんもパニクって逃げまどう。
草を刈る意味は単に
刈ると気持ちいいから。
それ以外にほとんど意味はない。
勝手な人間を許せ、
と心で念じつつも
草の勢いに負けない気勢で
バリバリと刈る。
これが「タマの汗」ってやつですかっ
って汗をだくだくとかく。
これが「ゴキュゴキュ」ってやつですねっ
って音でがぶがぶと水をのむ。
すでに水浸しのタオルで、
ぐりぐりと汗を拭く。
みぃこも僕も熱中症寸前、
気持ち悪くなりながら終了
完璧、とは言えないが、
近隣の人たちにそれなりにすがすがしく
お盆を過ごしてもらえるくらいには
すっきりした。
家に帰って、
汗ばんだ肌がミチミチくっつく畳に倒れ伏して
なにはともあれ、少し寝る。
起き上がって、
すこしぎくしゃくする身体で
頭からザブザブとシャワー
いやー、気の通りがよくなりそうだね!
草刈りや
玉の汗や
そのあとの水浴びを
気持ちいい!
という風に思うのは
歳のせいだと思う。
なにか草刈りのようなもので
すっきりしたくなる
澱のようなものがたまっていくんだと思う。
上がってさっぱり着替えて
扇風機の前にゴロン
間髪を入れずおそってきた
すでに肌がぺたぺたする
ロクスケの肉弾攻撃を
「ぺたぺたするからあっちいけー」
とかわしつつ、
形はわるいけどごろごろと
肥大化した本日大収穫のオクラの食べ方を
やっぱ「夏カレー」でしょう!と決め、
料理はみぃこにまかせて、
昼から「スイカくわせろ
スイカくわせろ」とうるさかった
ロクスケの念願をかなえてやるかと
ビーサン履きで買い物に出かける。
猫にちょっかいをだしたり、
歌をうたったり、
すでに黒いシルエットになっている
樹木の形を「モランがでた」とか
「モリゾーとキッコロだ」とか言ってみたりしながら、
ぬるい空気の夕暮れの坂道を
ロクスケと手をつないであるく。
スーパーでは
スイカはこっち
ヨーグルトはあっち、
と、とーちゃんよりも
よく把握してる。
スイカは種とスジが少なそうなのを
選んだのだけどロクスケは
「たねがないね」と
ちょっと残念そう。
いまうちでは
さとうわきこ『すいかのたね』が
流行っていて、
「え!これでもつまらないかい!ええ!」
と悪態をつく種がないのは
スイカとしてどうなの?
というような気持ちだったのだろう。
最後に、
おかーさんから特別にお許しのでた
カップアイスをかごにいれて、
「アイスが溶っける」
「アイスがとっける!」
とかけ声をかけながら
こんなどうでもいいことの方が
いつまでも記憶に残ったりするのかもしれないな
なんてことをふと思ったりしながら
また夕暮れの坂を上る。
2008年6月29日日曜日
ローカルの創造性
カルチュラル・タイフーンのパンフ(最近photo boothがポラみたいにうつることが分かって愛用している)
メインセッション1:ローカルの創造性
休日の入試業務と会議を終えて、前の晩はあまり寝てなくてねむいし、夏日で天気は気持ちがいいし、そのまま帰って今日は昼寝でもしたい誘惑にもかられたのだがなんかやっぱり気になって来てみて良かった。
五十嵐さんのその土地の技術にあわせて作る、ということも、タノさんのピカソやボティチェルリ(ママ)を知ってるのに地元のアーティストのことを全然知らないのはなんかヘン、というのも、鹿野さんの作りたいものを作るために必要なものを稼いでくるだけ、というのも、僕には腑に落ちる。
本江さんや小野田さんが「そうはいってもさー、東京に比べればマーケットも小さいわけだしイロイロあるわけでしょう?」とやや意地悪な水を向けたことは、そんな「素朴な」スタンスだけでホントにいいのかな・・という一方で僕の中にもある気持ちを代弁していたものの、でも、「グローバルな展開」なるものの幻想が僕らの感触の中からも忘れさせてしまうけれど、でもやっぱり僕らは「どこかに居て」何かをしなければならないのだし、それだけでよいかどうかは別として、またそこしか起点がないのかは別として、起点の一つであることは確かなことだし、ローカル・グローバルという軸とは関係なく少なくとも個人史のなかにおいてはそのことの気づきは「作り始める」ということと同じことだ。
こういう場に居合わせることのいいことは、並べて置かれたり、やりとりされることで、「それはそうだな」だったり「そうじゃないな」ということが、感触として明らかになることだ。関本さんから「仙台ならではの特色ということを物作りにどのように反映させているのか?」という質問がでたとき、ローカリティ=地域色というのは、俯瞰的視点で見てしまったときの因果の取り違えというもので、全然違うなぁ、と即座に感じた。
質問コーナーで誰かが鹿野さんに「ローカルって規模の小ささですか?」と聴いたのに対し、鹿野さんが「いえ、距離のことです」と即答していたのが印象に残った。そして思い出したのは、公園のシーンで木々の間から青空が見える以外は視界が抜けることのない空間で関係性が重層的に字義通り「織りなされる」、ペドロ・コスタのコロッサル・ユースという映画のことなのだった。