カルチュラル・タイフーンのパンフ(最近photo boothがポラみたいにうつることが分かって愛用している)
メインセッション1:ローカルの創造性
休日の入試業務と会議を終えて、前の晩はあまり寝てなくてねむいし、夏日で天気は気持ちがいいし、そのまま帰って今日は昼寝でもしたい誘惑にもかられたのだがなんかやっぱり気になって来てみて良かった。
五十嵐さんのその土地の技術にあわせて作る、ということも、タノさんのピカソやボティチェルリ(ママ)を知ってるのに地元のアーティストのことを全然知らないのはなんかヘン、というのも、鹿野さんの作りたいものを作るために必要なものを稼いでくるだけ、というのも、僕には腑に落ちる。
本江さんや小野田さんが「そうはいってもさー、東京に比べればマーケットも小さいわけだしイロイロあるわけでしょう?」とやや意地悪な水を向けたことは、そんな「素朴な」スタンスだけでホントにいいのかな・・という一方で僕の中にもある気持ちを代弁していたものの、でも、「グローバルな展開」なるものの幻想が僕らの感触の中からも忘れさせてしまうけれど、でもやっぱり僕らは「どこかに居て」何かをしなければならないのだし、それだけでよいかどうかは別として、またそこしか起点がないのかは別として、起点の一つであることは確かなことだし、ローカル・グローバルという軸とは関係なく少なくとも個人史のなかにおいてはそのことの気づきは「作り始める」ということと同じことだ。
こういう場に居合わせることのいいことは、並べて置かれたり、やりとりされることで、「それはそうだな」だったり「そうじゃないな」ということが、感触として明らかになることだ。関本さんから「仙台ならではの特色ということを物作りにどのように反映させているのか?」という質問がでたとき、ローカリティ=地域色というのは、俯瞰的視点で見てしまったときの因果の取り違えというもので、全然違うなぁ、と即座に感じた。
質問コーナーで誰かが鹿野さんに「ローカルって規模の小ささですか?」と聴いたのに対し、鹿野さんが「いえ、距離のことです」と即答していたのが印象に残った。そして思い出したのは、公園のシーンで木々の間から青空が見える以外は視界が抜けることのない空間で関係性が重層的に字義通り「織りなされる」、ペドロ・コスタのコロッサル・ユースという映画のことなのだった。
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