2007年7月28日土曜日

何をしようというんだろう

今日は隅田川の花火だなー
東京にいたときは実際に行かなくても、
隅田の花火の報道があると、
(ローカルには、浦安の花火大会を見に行くと)
あー夏が始まるなぁ、という気分になってた。


仙台は、七夕の前夜祭の花火。
だけどどっちかっつーと夏の終わりを
予感させる


と、申しますか、
桜の葉っぱはすでに一部が赤くなったりしてて、
仙台の夏は始まりながら早くも終わりつつあるかんじです
要するに、関東っこからみれば
仙台に夏はありません


それだけがたまにキズ


・・・映画を題材にあーだこーだと語る
催しを学内でやってたこともあって、界隈では
なんとなく映画担当の人みたいな位置づけなっており、


(『ハイスクールUSA』の町蔵さん、
その節は貴重な資料をありがとうございました。
おかげさまでピリッとしまったいい回になりました)


(↑アメリカを語る上で欠かすことができない、
映画本を超えた「USハイスクール人類学」の必読書です)


先日も、映画が撮りたい、と相談にきた学生たちがいるのだが、
とは言ってもそれは完全にお門違いというもので、
「おおー、そうかそうか、がんばれよ」
と励ますことしかできないのだが、っていうか
相談なんか来ないで撮っちゃえばいいじゃん
って思うだけなのだが、


しかし気になるのは、一向にクランクインする気配がないのは
まあありがちなことなのでいいとしても、中心になってる学生たちが
「いやー、僕ら撮影とか技術的なこと全然わかんないすから」
と言ってヘーゼンとしているところである。


少なくとも以前は、それでは「映画を撮る」と言えなかった。
そのポジションはものをつくる集団の中で許容されなかった。
(実を言えば本当はいまも許容されない)


こういうとき、僕は「ったく、近頃の若者はっ」とは考えない。
彼らは与えられた条件の中で行動を最適化しようとするはずだ、と考え、
そこに映った「世間」の反映を見よう、と考える。


だって、実際、人間は世代と関係なく様々で、
時代毎に違うのは世代差じゃなくて、
時代毎に人が選択できる行動やマインドののレパートリーが
増えたり減ったりするだけのことだから。


ま、そんなことから考えてみるとですね、
「人のフンドシで相撲を取る」というか
人の労の結果を自分の成果としてもかまわない、
むしろヨシとする風潮が醸成されつつあるということだと思う。


そんなとき便利に使われるのが「プロデュース」という言葉。


学生たちが「プロデュース」というとき、よくよく聴いてみると
なんだよタダノリのことかよ、って場合があって笑っちゃうんだけど、


プロデュースって基本的に「する」もんじゃなくて
「頼まれる」もんですよね。


あと、いわゆる「文系志向」も同根のタダノリ傾向だろうけど、


まあね、資本主義ってタダノリ主義のことだし、
まあある意味正しいのかもしんないけどね、


でも、友達と映画撮ったり、って
そんなところでまでタダノリで、お客さんで、って、
それはいったい何をするってことなの?
そこで「トクして」どうなるの?(笑)


そんなふうに仲間と過ごす過ごし方はまったく興味ないねぇ


悪いけど。

1 件のコメント:

toki さんのコメント...

だからカメラとかも借りにくるんでしょうね。買うところから始めるもんでしょ、ってもう古くさいんですかね。