いっしょにソバを食いながらフカダさんが、
シュタイナーあるいはユング的な世界観と
日本の地域にかつてあった習俗との同型性
について聞かせてくれる。
それは一言で言えば、
「あの世」を世界観の中に設定して
そこからの声に耳を傾けたり
行ったり来たりする、ということなのだけれど、
なのでぼくは、
人間の精神はなぜ「あの世」なるものを
「仮構」する必要があったのか疑問に思い、
それを口にだしてみたのだった。
すると、
「いや、それが世界観ですから」
という。いやそうじゃなくて、その世界観がなぜ
あの世とこの世の二分法で構成される必要があったのか、
ってことなんだけど・・
「??だって世界はそうなわけだから」
・・という言葉の途中で僕は分かった。
僕は普段からご縁や「必然」というものを
強く感じながら生きている方だと思う。
だけどそれは真の意味で「世界観」と
言えるようなものではなかったのかもしれない。
もちろんそういう世界観を持たなきゃという意味ではなく、
あまり意識していなかった自分の「業」の所在を
不意に突きつけられた感じがしたのだ。
この話は、だからそのような世界観を失った
「伝統工法」なるものも本来の伝統工法では
あり得ない。伝統工法の復権っていうんなら
世界観もまた復権しなければならないだろう、
と続くのだが、前回の「セッション」のときも
物づくりにおける時間の流れについての
衝撃的な指摘があったりしたし、
この人と家を建てたりするのは
面白いけど相当なカクゴは必要だなぁ、と
ソバをすすりながらぼんやりと思った。
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