帰国して最初の出勤日、なにはともあれ
自室で同僚のトキさんとおしゃべり
群馬の山荘での日本画ワークショップの
それはもう聞いていてうっとりするような、
「桃源郷のような」とトキさんいうところの体験。
人と居て心底楽しいと思った、と。
わかるなぁ、足し算じゃなくて
かけ算感じちゃうときがあるよね。
それがあれば人と居れる。
その山荘はいわゆる自然志向なんだけど
少しも肩肘はったところがない。
建物もツギハギ。だけどすばらしく
かわいらく、アトリエなどはほんとうにもう、
ここでニカワに岩絵の具ねりねりしたら
感覚はもう全開に開いちゃうだろうな、というような。
あーそれだそれだ、自意識からさらに一巡りして、
「自然体」を獲得できればそこに成熟は成される。
ロラン・バルトは、そんなヨーロピアンな自意識はクソだ、
『表徴の帝国』の動物のような自意識レスこそ
すばらしい、と言ったけど、ごめんねー、やっぱ
動物じゃいられないんだよ。もはや
出がけに我がムルを見て、
「こんなのムルじゃない、本国のムルみたいに全然生き生きしてない!」
とクサクサし、車を走らせていても
「イタリアみたいに車が全然はねてない!生き物じゃない!」
とクサクサしたのが、こんな僥倖のようなシンクロニシティーで
あっさり、日本だって捨てたもんじゃないよね、に
転んでしまうこのいい加減さはどうにかしたほうがいいのかもしれないけど、
まあこんなふうにアップンダウンで生きていくのでしょう。
でもね、イタリアにやられちまったのはほんと。
イタリアってのはあれだなー、ヴェネツィアを見た
三島由紀夫をして「ここに頽廃がある!」と興奮せしめたように
人をおっちょこちょいにしてしまうところがあるんじゃないか?
まあー、ぼくもブロツキーのように静かに向かい合いたかったですけどねw
やられたというのはどういう気持ちかというと、
僕はこの風土で本当に豊かにエロスを体感してきた
大切な経験があるから、そこが捨てきれなかったんだけど、
それが彼の地イタリアにあるならもういいじゃない、
このズタズタで、べったり重たくて、
でも世界の他のどこにもないような
どこでも起こってないことが起こりつつある
この場所で、まあやるべきことをやろうじゃないの、
ヤケクソで。とまあそんな感じです。
いえ、楽観的なんですよ、基本的に
大局悲観、局所楽観、で(ダニエル・シュミット)
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