セントレア(って名前もよくわかんねーけど)の
デッキでロクを手すりのところに立たせて
一緒に飛行機を眺めていると、
「ワイヤーにだけは手をふれないでくださいね」
(RCの手すりの上にステンレスの支柱をたてて、
ワイヤーが何本も張り巡らしてあるのだが、
ロクがそれをギターよろしくベンベン弾いていたのである)
と警備員。「だけは」って表現に、
手すりに立たせるのは許してやるが、
ってニュアンスが込められているのにカチンとし、
また、なんかホントに危ない仕掛けでもしてあるのかな、
という単純な興味もあり、
「さわったらどうなっちゃうんですか?」
と聞いてみた。すると、驚愕の答えは、
「さわると(ワイヤーが)すぐ抜けちゃうんですよ!」
というものだった。本当ですか?ほんとなら
それが放置してある方が問題だよ。
あらゆる意味でバリアとして機能してないじゃん、それじゃ!
ったく言うに事欠いてってのはこのことだ。
ほんとうに、日本の合理性を欠く、
というのはつまり、「実質」を見極めない
過剰管理にはうんざりする。
先日も、勾当台公園のライブで、
うしろの方はガラガラでイベント屋が大好きな
「動線確保」は問題なくなされていたにもかかわらず、
「動線確保にご協力くださ〜い」
と警備員がガナリ声をライブ中ずっと上げていたので、
(っていうか、ここで「動線」って言葉を使っちゃう
言語感覚がたまんなくムカつくんだよね)
「うるせぇな、音楽聞けないよ。
動線は確保されてるじゃん!」
ってカミついたと言ったら僕の清純なイメージが
崩れてしまうのでそう思っただけということにしておくけど、
(理不尽なことにはちゃんと身体的に反応できるように
正しく育ってきたのです)
たぶん僕の言ってることはほとんど理解されない。
エキセントリックな人、で終わるだろう。
そしてそれこそがこの日本の窮屈さ、
なにも生まれることのないつまらなさの本体だ。
これが日本的なものだよ、と人は言うかもしれない。
だけどそれは違う。この閉塞感はおそらくたかだか数十年の
あいだに醸成されたものに過ぎない。
だって、僕の親や祖父母に聞けば、
ほんの数十年前まで日本はもっとオープンマインドで
実質的な社会だったことがわかるもの。
これが日本ってものだよ、それもまた
窮屈な日本を支える一つの思考停止の様式だ。
なんでこんな事を言い始めたかというと、
イタリア人が実質をきちんと押さえて生きていて、
それがどんなにか社会を風通しよくしているか
ということを体感してきたから。
たった一週間の仕事での旅だったけど、
イタリアにはこれまで何回かいっているけど、
今回ほどタイムリーにイタリア的なものを
体験したことはなかった。心の底から
イタリア的なものの体感を欲していたことを発見させる
旅だった。あんなものがこの世に存在するなら
日々感じさせられる閉塞感やつまらなさは
やはり間違ってはいなかったのだ。
ほとんど啓示のようなタイムリーさでそう感じる。
普段なら、それでも、やっぱ飯はうまいなーとか
それなりに日本の良さも発見する。
でも今回ばかりは、帰国してひたすらクサクサする。
とても寂しい。
(いっとくけど、さっきも言ったけど
くさくさする「日本」を本来の日本だとは思っていない)
この風土に日本語を話す人間として生まれたことを
後悔したことはこれまで無かったけど、
(日本語を話すことにもちろん今でも後悔はないけど)
なぜイタリア人に生まれなかったんだろう、と
無防備に心底思う。
イタリアに移住すればいい?
それは違う。僕はイタリア人にはなれません。
なぜイタリア人じゃなかったんだろう、と
思うことしかできない。
イギリス人よりイギリス的と言われた吉田健一が
でも「文学」を生きるために日本に帰ってきたように、
僕も日本に生きるしかない。
でも、もう未練はありません。
情状酌量はありません。
そして日本で生きるのだ。
そんな気持ちもまたいずれは曇るだろう。
だからここに書いておく。
その時のために、イタリア的な場所に定期的に行って
過ごし再び「日本」を相対化するための
旅人以上住人未満の関係を確保しなければ。
それが短期的な目標となった。
ここに記すものなり。
2 件のコメント:
だめぞうです。
日本が実質主義でなくなったのは、ひとつには世の中がアメリカ化してきたからかもしれませんね。
かの国は、さも実質主義のようにいわれることがありますが、訴訟社会のなれの果てにあらかじめのいいわけでみたされてます。
幸い日本は(多分)まだ訴訟社会ではありませんが、自己満足的な善意に根ざした「正論」がそちこちにあふれているので、その善意から身を守るために形式の鎧をまとわざる得なくなっているような気がします。
そうですねー
潔癖さがピューリタンっぽいしね
でも、アメリカはやっぱ欺瞞だけじゃないのかな、
っていうのは、あんな国行ってやるもんか
(子供かっ)って思ってたアメリカに
この春しょうがなく久々行ったとき感じた。
まあ、行った先がパロアルトだから
「アメリカ」じゃないのかもしれないしw、
それにまあやっぱり短い滞在だったからね、
同じ西海岸でもやっぱり長く住むと
見えてくるのは欺瞞のほうなのかもしれないんだけど・・
「形式の鎧」まさにそうなんです。
でもなぜちぢこまらなきゃいけないのか?
そこんところがよくわからない。
実体のない影に怯えて鎧をまとうことで、
影を実体化しちゃってるような気がする。
いみじくもまだ訴訟社会ではないって
おっしゃってるように少なくとも現状じゃ
実害あってのことじゃないと思うし
(学校に理不尽な文句つけたり、
医者に暴力ふるったりする人たちが
訴訟という手を使い始める可能性は
あるとおもうけど)
でも、理不尽なものが通っちゃうところまで
きてるかなぁ、今後もくるかなぁ・・
オープンでありつづけても、
ちょっとやな思いすることがあるくらいで
どってことないんじゃないか、って
気がしないでもない。
いずれにせよ僕は直覚でしか言ってないので、
なにがハイ・プレッシャーなのかは
見極めたいところです。
それに、実はこれで結構楽観的なんです。あはは
だめぞうさんのような心ある方々が
まだまわりにいらっしゃるからね
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